「EP6感想語り、その2」
うみねこ全体を通して思ったこととか↓
真実の魔女とは
『真実に耐える魔女?』
きっと、それは、…ちがう。
真実は確かに「絶対」も「奇跡」も介入できない、とても無慈悲で残酷なもの。
けれど、真実は不確かで曖昧でその時々の事象によりさまざまに変化するもので。
真実というのはきっと、現在であって過去じゃない。
たしかにそこに存在する「真実」はまるで刃のように鋭く私たちの心を切り裂くかもしれない…。
しかし、それは、「その時のみの真実」であり、過ぎ去ってしまえばもはやそれは「過去」でしかない。
真実は、観測者によって形を変える。時代によって形を変える。
たとえば、真里亞がベアトにもらったあの飴玉は、ヱリカの言い分によってはそれは手品だ。
しかし、それはヱリカの中の真実であって、真里亞の中の真実は魔法なんだ。
そしてその真実はだれにも汚すことは許されない。
ヱリカがそれを手品だと言っても。ヱリカがベアトに直接飴玉をもらったわけじゃない。
たしかにその現場を再構築して考えれば、目をつぶってる間に飴玉をカップに入れるなんてことはヱリカじゃなくても誰にだって想像はつくだろう。
でも、そのヱリカの青き真実でさえ、数多の真実の中の一つであって、いくら主張しても、真里亞が目をつぶっている間の出来事を「これが真実だ」と誰にも決め付けることは出来ない。
それらは全ては「数ある中の可能性の一つ」であり、絶対的な真実にはなりえないから
そしてヱリカが昔の彼に対して得た、「愛がありすぎるから視えてしまうものもあるという」論法。
たしかにそれも一つの真実として正しいだろう。
でも、真実に耐えるということが、正しい真実の魔女のあり方なんだろうか。
真実を受け入れる強さも必要だろう。
だから、それを受け入れられたヱリカは、心の中ですこしだけ、過去の記憶から逃げたがっている主を見下した。
でも、それすらも、真実の前に屈服したに等しいんじゃないだろうか。
真実はゆるぎなくそこにただ立ちはだかって…
でも、それでも、それを乗り越えるのが、本当の真実の魔女なんじゃないだろうか。
たとえば、とある村の女の子は自分の愛する人が村の誰かによって殺されたという真実を受け入れ、生きているという真実を捨てた。
その結果、生きているという真実を選択していれば得られていたはずの数々の事象が視えなくなり、惨劇を生み出した。
きっとそれと同じなんじゃないだろうか…。
閉じられた世界には人の思考の数だけの真実がある。
その中でヱリカが至った真実もきっと正解ではあるんだろう。
けれど、その真実に直面したとき、そこから再スタートすることだって出来るはずだ…。
彼は自分を愛していないという真実。
しかしそれは現時点での真実であり、ヱリカの中だけの真実だ。
もしかしたら、ヱリカの努力次第では、その人ともう一度愛し合えたかもしれない。
彼が自分を愛していないという真実を覆せたかもしれない。
復縁はだめでも、また別の人と新たな恋をすることだってできたかもしれない。
12年後の縁寿の件にしたってそうなんじゃないだろうか。
彼女の元には何があっても家族は還らない。死んだものは生き返らない。
死んだというのは絶対的な真実で、覆ることはない。
でもだからって縁寿がかわいそうな女の子という真実にはなりえない。
もしかしたら、その後もたくましく生き、新しい家族を持ち、幸せな生涯を送るかもしれない。
きっとそれは戦人や霧江や留弗夫たちという「縁寿の本当の家族ではない」けれど…
でももしも、絵羽叔母さんと心を通わせることが出来て、お母さんのかわりだと、家族だと認めることができたのなら?
そして、その後、新しい右代宮縁寿として力強く生きて、母となり子供を生み、新しい家族をもてたなら?
家族は「還らなかった」かもしれないけど、ベルンの約束どおり縁寿に家族が「帰ってきた」ことになるんじゃないだろうか。
おそらくその物語が受け入れられない人もいるだろうし、戦人たちが帰ってこないと駄目だと思う人もいるだろうけれど…。
それは、きっと縁寿のための幸せな真実の一つとして有効だと思う。
分かる人以外は読んでほしくない、という八城の言葉はそういう意味としてもとれるのかもしれない。
そして、「あのベアトリーチェは二度とよみがえらない」という赤字もそう。
赤き真実は絶対であり、覆ることはない…現時点では。
そう、赤字が絶対の真実であるというルールは、あの閉じられた二日間だけのもの…。
あのベアトリーチェは、二度とよみがえらない。本当にそうなんだろうか。
それを真実として受け入れるのも正解であり、
それを受け入れないのもまた正解なんじゃないだろうか。
本当の真実というのは、時の流れや、観測者によってさまざまに変化していくものなんだから。
だから、あの悪夢の二日間を乗り越えたのちに、ベアトリーチェがひょっこり戻ってくることだって否定できない。
真実をただだまって受け入れ、耐え忍ぶことが……本当に、正解なんだろうか…?
真実ってのはまるで運命の壁のようだと思う…。
もうすべて決まってしまった事柄。絶対に覆せない袋小路へ追い詰めるための、壁。
でも
「運命ってのは、金魚すくいの網より薄い」って、どこかの誰かが言ってましたし。
きっと大切なのは、真実が何かではなく、真実の受け方 なんじゃないかな…。
たとえ、そこに立ちふさがる真実がどれほど無慈悲で覆せないものだとしても、それを受け取る側によって、いくらでも真実なんて姿を変えられる。
「魔女はいる」、「魔女はいない」、と主張する二つの異なる真実。
それらはきっと「愛がなければ、…視えない」
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